事件簿8(秘密諜報活動ファイル)

秘密諜報員の活躍を、今度こそダンディに描く。

良く晴れた晩秋の朝、私はコートのエリを立てて木枯らしが吹きすさぶ道を足早に進んでいた。人込みの中をかいくぐって とある交差点に着いた私は、ふっとため息をついてタバコに火を付けた。白い吐息に近付く冬の気配を感じながら5分程待つと、向こうから1人の御夫人が歩いてきた。

TJ「お早うございます。こんな朝には濃いめの熱いブラックコーヒーが合いますね。」
オバン「なにしとんのやアンタ、あっちのスーパーの方がキャベツ20円も安いんやで!」
TJ「今頃はあのロンドンの町並みも毎日のように霧に包まれて情緒があるでしょうね。」
オバン「あーもう、ダンナは出世せんで稼ぎも悪いし、ガキは勉強せぇへんし、ほんまカナワンわ!」
TJ「どうです?今年はカリブ海で優雅なクルージングとでもシャレ込みませんか?」
オバン「これもろとき。ええから。ちょっとやけどお菓子でも買いぃ。おかぁはんに言うたらアカンで!」

御夫人はそう言って私の手にあるものを握らせると、どこへともなく人込みの中へ消えていった。いつもながら完璧な合い言葉だ。そう思いながら私は手にした装置のボタンを押した。

ボス「お早う、TJ君。今回の君の使命だが、先般我々が入手に成功した絶版LTR1800に使うワイヤーを購入することにある。このモデルに付いてきた純正ワイヤーは経年変化でケバ立っており、実用に耐えない。そこで手芸店に行き、ナイロン100%の糸を買ってくるのだ。例によって君もしくは君のメンバーが捕らえられ、あるいは殺されても当局は一切関知しないからそのつもりで。なお、この装置は自動的に消滅する。ブシュ〜。」
TJ「熱ちちちち!!」

ふっ、もうお分かりだろう。私は秘密諜報員、コードネームはTJだ。今まで数々の難事件をあざやかに解決してきた。
本来なら手芸店に行く仕事はコードネームOJの担当なのだが、

OJ「あらざんねんねわたしはこんげつはオフなのよ」

ということで私に回ってきたようだ。まあ、私にとって今回の指令などは朝飯前だ。

私はさっそくバスに乗って街に出かけた。秘密諜報員はボンドカーに乗るんぢゃないか?と思ったあなたはまだまだ甘い。最近は敵の目をあざむくためと経費節減のためバスを使うのがトレンドなのだ。さすが21世紀の秘密諜報員はひと味違う。
さて、まずは手芸店の場所調査だ。私くらいになると街中をうろうろして手芸店を探すようなシロウトくさい手は使わない。私は迷わず本屋におもむき、タウン情報誌という名の極秘ファイルを手にした。この極秘ファイルには街にある数々の重要施設の場所と特徴が克明に記されている。よくぞここまで調べ上げたものだ。しかも定価は680円。さすが21世紀の極秘ファイルはひと味違う。

TJ「さて、まずは索引で手芸店を探すと。手芸店、手芸店...。わ!いっぱいあるな〜、どれが近いんだ?えーと、この手芸店の場所は P58にある地図のC-5ね。C-5、C-5..。あ、あったあった。んーと、今いる本屋がここでしょ?だからこっち行ってラーメン屋の角を曲がってこーしてあーして行くといいわけね。オッケーオッケー。」

本屋を出てわずか8分後、優秀な私はすでに手芸店の前にいた。途中で間違えてちょっと迷ったことはもちろん誰にも秘密だ。
私は胸のポケットに密かに忍ばせた財布(暗号名:ワルサーPPK)の中身を確かめ、呼吸を整えるとおもむろに店の中に飛び込んだ。

TJ「な、なんだこれは!!」

その時私の目に飛び込んできた光景をあなたは信じられるであろうか。店内の数々の棚一面をおおいつくす極彩色の糸や布の驚異。色とりどりのビーズ玉や「手作り毛糸ひつじセット」や「かわいいネコちゃんぬいぐるみセット」の応襲。まるでこんな感じだ。

くそっ、何と言うことだ。ここは敵の秘密基地だったのだ。ということはレジの横にすまし顔で立っている店員は敵か?敵だな!
いったい目的の糸はどこにあるんだ。かいもく見当がつかない。しかし私は21世紀の秘密諜報員。敵との接触は最小限に抑えなければならない。つまり、この秘密基地中で敵に正体を暴かれることなく単独行動で任務を達成しなければならないのだ。
私はそ知らぬ顔をしながら慣れた手付きであちこちの棚をあさり、ついに目的のものを発見することに成功した。

それがこれだ。

滑りが良く、ケバ立ちも少ないナイロン100%のミシン糸。しかも長さは300m。ワイヤーが極端に多く必要な AK850のクレーンも余裕で10台は作れる。
完璧だ!。

私は任務の成功を確信しながらレジに向かい、敵である店員に正体を暴かれることもなくスマートに会計を終えて秘密基地をあとにし、再びバスに乗って本部へと無事帰還した。

TJ「ボス、任務完了です。」
ボス「うむ、御苦労だった。」
TJ「私のようなA級諜報員にとって、今回の任務はお茶の子サイサイでしたよ。次からはもっと高度な任務を与えてください。これじゃ準備運動にもなりゃしない。ふっふっふ。」

ボス「ちょっと待て。これは何だ?この糸は一見普通の糸だが、引っ張る力を弱めるとスポンジのようにポワポワになるではないか。左が今回の糸、右が kibri純正糸だ。」
TJ「あ、ありっ?」

ボス「この糸がワイヤーとして使える訳がない。任務に失敗しおって。こうなったら おしおきだべぇ〜!!」
TJ「あれぇ〜、かんにんしてください〜〜!!」

ボスにエリ首を捕まれ、奥の部屋にズルズルと引きずられていく私。
21世紀の秘密諜報員は楽じゃない。


教訓:よく分からないことがあったら、
素直に店員さんに聞きましょう。